fc2ブログ

西遊記208

カシュミールは四面を山に囲まれたているが昔、ここは龍の住む湖であった。烏仗那国の悪神を降伏させた如来が空を飛んで中インドに戻るおり、この上空で阿難(釈迦十大弟子の一人)に「私が入滅後 末田底加(マドゥヤンティカ)がこの地に国を建て仏教を広めるであろう」と予言した。その後 釈迦入滅50年目に阿難の弟子 末田底加 は予言を聞きここにやって着た。そして林の中で座禅を組み大神変を現じ、それを見た龍は末田底加の元に現れ「望みのことは何でもする」と言った。末田底加は「この湖にわが膝が入るほどの場所が欲しい」と言い龍は承諾した。龍は湖を小さくし土地を作ったのだが末田底加は体を大きくし湖を覆ってしまい ついには龍の住むところがなくなった。龍が住むところを願ったので末田底加は西北に周囲60kmほどの湖を与えた。
そして、釈迦入滅400年後に第4結集(注52)をおこなった場所でもある。

注52 結集:釈迦入滅後 その教えの解釈に違いが生じ、それを統一するため多くの僧が集まり会議を行った。
第1回目:釈迦入滅4ヶ月後 摩訶迦葉(マカカショウ)がマガダ国の首都の郊外に五百人の阿羅漢を集め作られたが、文字として記録されず口唱の形でまとめられた。内容は僧の守るべき戒律である「律」
第2回目:釈迦入滅100年後 戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれた。
第3回目:釈迦入滅200年後(紀元前3世紀半)アショーカ王(阿育王)の治下、華氏城(けしじよう、パータリプトラ)が1000人の比丘を集めて行われた
スポンサーサイト



深圳

昔は約3000人の小さな漁村が、1200万の巨大都市となった深圳 日本より進んでいる と聞いたので行きたいな と思う

出雲13

ところで真の御神体は出雲大社 裏にある八雲山とも言われる。事実 太古は神社のような建物もなく 自然物そのものを御神体としてあがめており、現在も 大神神社は御神体を背後にある「三輪山」としている。

八雲山

八雲山

この八雲山の力が集うのが出雲大社本殿 真裏にある「素鵞社(そがのやしろ)」のそのまた真裏にある大岩(信仰の対象となる岩を「磐座(いわくら)」と言う)と言われます。磐座が御神体なのは【京都】御剱社、【群馬】榛名神社、【三重】花の窟神社 等多くあります。

素鵞社

素鵞社
磐座

磐座

"この「素鵞社」から15分ほど(約800m)歩いくと稲佐の浜(本居宣長によると、国を譲れとやってきた建御雷神が建御名方神達に「否(いな)」か「諾(せ)」かと詰め寄ったから稲佐という・神在月においては、この稲佐の浜にて神々をお迎えする神迎神事(かみむかえしんじ)が行われる)がある。

稲佐の浜
稲佐の浜


この稲佐の浜に歩いて行き砂を頂き袋に入れる。そして「素鵞社」床縁下に置き供えれば、従来からある御砂を持ち帰ることができると言われます。この砂を「清め砂」と言い 各地にこのような風習があり この砂を家の四方にまくと邪気が払えるという。まき方にはhttp://ryumei.net/index.php?cID=100などに示す方法があるといいます。
"
また、出雲大社本殿 裏から見える神輿は神様を移動させるのに使用する神輿です。

神輿
神輿


出雲大社12

御神体つながりだが心御柱(大黒柱)が御神体ではないか とも言われる。この心御柱を手に入れることにおいて以下の話が伝わっている。

先にも書いたが、出雲大社には奈良時代の神仏習合(神と仏は同一の信仰体系の中にはある)で仏式の三重塔や鐘つき堂があったが、寛文2年(1662年)の造替で仏式のものを全て排除しようとしていた。


慶長年中の杵築大社絵図

慶長年中の出雲大社絵図


ところが本殿を造ろうとするも心御柱にするのにふさわしい大木が見つからなかった。ようやく 但馬の妙見山で良い杉を見つけた松江藩の役人 岡田善兵衛は、木を売ってくれと73歳になる日光院隠居老僧に頼むも「あの七旺杉は御神木なので売らぬ」との回答。
30本の木材の代金として180両支払うというも承諾せず、出雲大社の御用材に使うというも承諾せず  交渉が難航している折 老僧は「実はこの日光院には層塔があったのだが80年ほど前の天正5年(1577年)秀吉による兵火で焼けてしまいました。いま再建しようと 檀家の寄付を集めていたところですが、聞けば出雲大社は三重塔を破却されるとの事。譲っていただければ 材木もお譲りしましょう」と言いました。岡田善兵衛は三重塔の譲渡は藩主及び国造に相談すると返事し、後日 「すでに用済みであるので構わぬ」との回答を得たので 無事 心御柱を得ることができたのでした。
また 三重塔にあった釈迦 文殊 普賢の三仏像は神光寺に渡すことになっていたのだが、それも欲しいと言ってきたので 神光寺の約束を取りやめ日光院に譲ることにした。塔は1か月余りをかけ解体 島根県宇龍港から船積みして兵庫県津居山港に陸揚げ 八鹿(ようか)村の人夫ら延べ2500人で1665年9月に日光院に三重塔を移転させた との事です。

名草神社 三重塔

日光院(名草神社)の三重塔


現在 この場所は明治時代の神仏分離(神と仏を分ける)により日光院が『石原山・帝釈寺』としてこの地を離れ 名草神社になっています。
この三重塔は標高760m、日本一高いところにある三重塔で「見ざる、言わざる、聞かざる」に加えて「思わざる」がいます。

さる

見ざる 言わざる 聞かざる 思わざる


まとめると この三重塔は
1527年 尼子経久が三重塔を出雲大社に建立
1665年 出雲大社から移建 

出雲大社11

そろそろ結論を書きたいと思う。御神体とは銅鐸ではないだろうか と私は推測するのである。
理由として
㈠⒍にあったよう銅鐸は大国主の神御財である。伊勢神宮の御神体は八咫鏡であり天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るよう言い渡しているからこそ御神体になりえたのである。出雲大社の御神体も大国主のシンボルである銅鐸ではなかろうか
㈡⒋に関連するが、もし御神体が銅鐸ならば銅鐸の存在を知らなかったであろう直政は銅鐸がなんとも形容しがたい奇異な形に見えたのではなかろうか。そこでその奇異な形を見 底が黒い鮑のように見え さらに見たところ舌が蛇である と感じたのではなかろうか。また銅鐸には多くの穴がある。

銅鐸

出雲大社の周辺で見つかった御神体らしきものは1世紀頃の銅戈と勾玉であり、出雲大社の御神体もその時期のものであると思われる。
㈢出雲大社の神紋は大国主の神徳が六合にあまねく ための六角形であり、1銅鐸は底が六角形 2銅鐸は祭祀としての楽器であると考えられるので六合にあまねくという概念に一致する。しかし、先に見てきたように銅鐸は祟ることが可能と思われていた祭祀具である可能性があり、それが故に そのままを図案化できず亀甲紋になったのではないだろうか
㈣⒊で御神体は七宝の筥とあるが それは御神体が七宝の筥に入っていることを示すのであろう。
㈤⒉で御神体は巾は30㎝あまり 長さは3m以上の御衾がかけられている というが銅鐸の大きさに丁度良いのではないだろうか
㈥天皇家といえど出雲大社本殿に入れないのは、埋められたはずの銅鐸が御神体として祀られていたから入れることができなかったのではないだろうか
㈦ⅱ 御神体が鎮座する畳は八角形ではあるが設計図には脚のようなものがあり あまり重たいとつぶれる可能性があるため石ではないだろう。
㈧2世紀、銅鐸文化が終了した後、それまでの古墳は四角形のものが多かったが3世紀になり鏡(伊勢神宮御神体)と銅鐸(出雲大社御神体?)が合わさった形状の前方後円墳が造られる様になった???
プロフィール

ISIDA

Author:ISIDA
思ったことを書こう思います。最初は そのつもりでしたが、最近は西遊記ブログになりつつあります。なお、過去の記事は この下のカテゴリから入ると読みやすいと思います。

申年1月1日 sun-wukong.comにてホームページ開設しましたが、内容 更新はこのブログの方が良いと思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR